2008年7月30日

観無量寿経

佛告韋提希 汝及衆生 応当専心 繋念一処 想於西方 云何作想 凡作想者
  一切衆生 自非生盲 有目之徒 皆見日没 当起想念 正坐西向 諦観於日
  令心堅住 専想不移 見日欲没 状如懸鼓 既見日已 閉目開目 皆令明了 
  是為日想 名曰初観

釈尊は韋提希夫人に仰せになった。 皆の者は、ひたすらに西方に思いをかけ、その世界(浄土)を想い描くがよい。どのように西方を思い描くのか。まず生れながらにして目が見えないのでなく、目が見えるものは皆、日没の光景を見るがよい。それを始めるには、姿勢を正し西に向かい座り、はっきり夕日を思い描くがよい。心を乱さずに集中し、他のことに心とらわれずにおれば、次に夕日が沈もうとし、西の空に鼓が浮んでいるかの様を見るがよい。それを見終わった後に、目を閉じても開いても、その夕日がはっきりと見えるようにするのです。このように想い描くのを日想といい、第一の観と名付ける。

こんな感じが意味ですか。でも、この教団での日想観の解説は『鼓のように見える太陽に集中していると、だんだん太陽が見えるようになってくる。まわりが輝いて見えるのだ。そして、すぐに足元(暗い所)を見てもはっきりと明るく見える。(状如懸鼓 既見日已 閉目開目 皆令明了)』とか。
要は、都合よい漢字をそれらしくつなぎ合わせてる気がするけど。でも「裏に隠された正法」だから、普通一般に訳したらダメなのかも。

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